大阪高等裁判所 昭和37年(ラ)192号 決定 1962年11月17日
抗告人 甲野花子(仮名)
訴訟代理人 木島寿治
主文
原審判を取り消す。
本件審判の申立を却下する。
理由
本件抗告の趣旨及び理由は、別紙のとおりである。
原審記録によると次の事実が認められる。
谷郷精一(原審申立人。以下同じ。)は、大正一二年七月四日藤原繁松及びその妻藤原きくゑと養子縁組をし、翌五日繁松とその先妻いつとの長女である抗告人と婚姻し、大正一四年七月一八日精一と抗告人との長男藤原順彦が出生した。その後精一と抗告人とは円満を欠くようになり昭和三年か四年頃別居し、精一は昭和五年一二月二七日協議離婚及び離縁をし、抗告人は別居以後繁松方等で順彦を養育した。他方、精一はその後広島市に居住し右離婚・離縁の約二年後村田ユウと事実上の婚姻をし昭和二四年七月二四日その届出をした。これより先、順彦は応急措置法施行後の昭和二二年七月三日死亡し、抗告人と精一とがその共同相続をした。精一は順彦死亡の際電報でその通知を受けたが葬式に出席しなかつた。順彦の遺産は、その死亡前から引き続いてもつぱら抗告人側で使用占有し、殊にその遺産に属する原決定添付目録記載不動産中の田より生ずる収益は全部抗告人側で取得し、その精一の相続分に応ずる収益を精一に分配したことはなかつた。他方、精一は順彦死亡後広島市で英語学校・予備校等の経営に専念し、順彦の遺産に対する自己の相続分を放置していた。ところが、順彦の死亡の日から約九年後の昭和三一年一〇月下旬抗告人の養子藤原睦男(睦男は昭和二三年三月二五日抗告人と養子縁組をした。)は、精一に対し「順彦名義の不動産を自己名義に書き替える必要上、持分放棄の書類を送付されたい。」旨申し入れたところ、精一はこれを拒絶し、昭和三二年四月中抗告人を相手方として遺産分割調停の申立をしたが合意成立の見込がなく精一はその申立を取り下げた。ついで精一は昭和三三年中抗告人を相手取り順彦の遺産に属する宅地及び農地の自己の相続分二分の一を抗告人が不法に占有侵害しているとして、宅地の賃科相当額、農地の収益相当額の各損害賠償請求の訴(金額三〇万円)を広島地方裁判所に提起したが、抗告人の方で、右損害賠償請求権は精一の相続回復請求権に基つくものであつて相続回復請求権は五年の短期時効によつて消滅している旨主張し時効を援用した結果、同裁判所は右損害賠償請求権は相続回復請求権に属するものであり五年の短期時効(民法八八四条)によつて消滅したものと判断し、同年一〇月一〇日精一敗訴の判決を言い渡した。
本件遺産分割申立の対象とされているものは、もと順彦の祖父繁松(昭和二一年一二月一五日死亡)の所有であり昭和三年六月一五日に同日付売買を登記原因として繁松よりその妻きくゑに、昭和一七年一〇月一三日に同年九月二五日付売買を登記原因としてきくゑより順彦(当時一七歳)に順次所有権移転登記がなされた宅地及び田ときくゑ名義(昭和三年六月一六日所有権保存登記)より順彦に昭和一七年一〇月一三日に同年九月二五日付売買を登記原因として所有権移転登記がなされた建物とである。
以上の事実が認められる。右認定を覆えすに足りる証拠はない。
右認定によると、精一は、相続開始の日の昭和二二年七月三日当時抗告人とともに順彦の共同相続人となつたことを知つており、順彦の前示遺産があることを調べずこれに対する自己の相続分を放置していたところ、その約九年後抗告人の養子睦男の前示持分放棄による名義書替の要求に接して遺産の存在を知り、昭和三二年中遺産分割調停の申立をしたがこれを取り下げ、昭和三三年中前示損害賠償請求の訴を提起して敗訴したものであり、他方抗告人は順彦の共同相続人ではあるが殊に前示遺産中の田の収益を全部取得して精一の共同相続人たる財産上の地位を明確に排除し、その相続権(民法九〇五条一項にいうところの相続分)を侵害し、順彦の遺産に対する精一の相続分をも占有・管理しているものというべきである。そして抗告人は、前示のように時効の援用(民法八八四条)をした。すると精一は、相続開始の日の昭和二二年七月三日当時自己が共同相続人であることを知りながらその当時から五年を経過した昭和二七年七月三日当時までの間相続回復請求権を行わなかつたものであつて、その相続回復請求権はすでに消滅したものといわねばならない。したがつて精一は共同相続人として抗告人に対し遺産の共有を回復・主張することができない以上、本件遺産分割審判の申立人たる資格を有しないものというべきである。相続回復請求権が時効により消滅したか否かについての紛争は、がんらい訴訟事項であるけれども、遺産分割審判手続において審判事項の先決問題としてこれを審理判断し得るものと解するのが相当である。精一の本件審判の申立は不適法なものというべきである。
そうすると、右と異る原審判は失当としてこれを取り消すべく、本件審判の申立はこれを却下すべきであるから、家事審判規則一九条二頃に従い主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 山崎寅之助 裁判官 山内敏彦 裁判官 日野達蔵)
抗告の趣旨及び理由
抗告の趣旨
原審判はこれを取消し、本件を神戸家庭裁判所に差し戻す。との裁判を求める。
抗告の理由
一、相手方の申立にかかる神戸家庭裁判所社支部昭和三五年(家)第五八号遺産分割事件について同裁判所は昭和三七年九月一四日上記審判をなされ抗告人は同日その審判書を受領した
二、ところで抗告人は上申書(昭和三五年九月一三日及び昭和三七年八月二一日付)のほか審訊期日の度毎に次の四点を挙げて相手方の申立かいかに不当なものであるかその所以を強調してきたか原審はそのうちの第四点のみについて判示し然もその一部を採用せられたに過ぎない
(一) 本件不動産は
(イ) 抗告人が実父繁松から贈与を受け便宜上被相続人の所有名義にしていたもので被相続人の権利ではない
(ロ) 仮に被相続人の所有であつたとするも抗告人は昭和一七年一〇月以来所有の意思をもつて平穏公然善意無過失に該不動産を占有していたもので取得時効の完成により完全なる所有権を有し
遺産分割の対象にならない
(二) 本件申立は同一当事者間の広島地方裁判所昭和三五年(ワ)第三五八号及び同第五二九号損害賠償請求事件確定判決の既判力を受くべき事項でありまた禁反言の法則にも背反し失当である
(三) 本件申立は権利の濫用であり申立人である相手方には何らの権利もない
(四) 抗告人が支出(負担)した被相続人に対する養教育費医療費は遺産額をはるかに超えており相手方の主張する相続分は皆無である
三、しかのみならず原審か判断を示された事頃のうちにも抗告人として納得のゆかない点が多々ありその二、三を挙示すると、
(1) 被相続人の消極財産としての葬儀費用は約金五〇、〇〇〇円を要したのにかかわらず金三〇、〇〇〇円と認定されているが減額の理由がわからない
(2) 「抗告人が被相続人を連れて実父繁松の許で家業の手伝をしていた間及び大阪の人形屋に職見習に行つていた間の被相続人に対する養育費及び教育費は多分繁松か支出したものと推察される」として考慮されていないけれども抗告人が父の許にある間の世帯主はなるほど父の繁松であり家計を一つにしていたため抗告人母子の食費代を支払うが如きことはなかつたがその間繁松は農業のほか牧場も経営していたので抗告人は農業を手伝う傍ら牛乳配達も一人でなす等身を粉にして稼働しその余暇に他家の賃仕事をして得た金のうちから被相続人の学費等を支出し父からは抗告人母子の食費代を支払わぬ代りに給金等労働賃金を貰い受けるが如きことはなかつた。換言すれば抗告人母子の生活費は抗告人の父に対する労務賃と相殺されていたのであり従つて被相続人に対する扶養費及び教育費は抗告人が負担していたことになるのである。また抗告人が大阪の人形屋(大阪市東淀川区相川仲通一の一元賀鶴子~相手方谷郷の親戚先)に行つたのは単に人形見習に止まらず現在及び将来の生活の糧を得る手段として給金を貰い受ける約の下に年期奉公に上つたのであつて人形造りを手伝う傍ら家事の手伝等をなし支給される給金のうちから被相続人の学費等を賄つていたものであるが仮に然らずして繁松が負担していたとするも繁松がその利益を相手方に帰せしめる意思を有しなかつたことは前後の事情から推して極めて明らかであり(繁松は相手方を離縁するため手切金として当時の金二〇〇円を渡している)経済関係は繁松と告抗人父娘一体のもので原審のいうが如き「相手方(抗告人)は申立人(相手方)に対し何らの権利も主張できない」性質のものでなくその額は相手方の相続分より控除されて然るべきである
(3) 次に「被相続人が学徒動員で工場で働く傍ら勉学していた間の学資金は労働給金でほぼ賄われたもの」と推断されているが被相続人は労働賃金は貰つていないしその頃既に(専門学校に入つたときから)肺浸潤に犯されていたためその養生をしながら働いていたもので栄養摂取のため物資窮乏の折から抗告人の払つた物心両面の犠牲は甚大であり学資金は、勿論抗告人において支出している。
四、以上の次第で相手方より本件申立を受けるが如き抗告人の夢想だにしなかつたことで全く晴天の霹靂といわねばならない。法はいかめしいものではあるが世人の親しみ得心するものであらねばあらずましてや冷酷無慈悲なものであつてよい筈がなく茲に本件抗告に及んだ所以である。